風水害

記録に残る災害 下田市立野 昭和15年、昭和50年、昭和51年 大洪水
概要 昭和51年7月11日~ 下田市全体の被害死亡5名、負傷者28名、家全潰9戸、床上浸水1321棟、床下浸水51棟

本災害発生前後の状況について

床上浸水121世帯、床下浸水35世帯、立野地区のほとんど全部が被害を受けた。県道蓮台寺線もあふれ出た水が川の様な状態で流れ、店頭の重い自販機まで浮いて流れるほどだった。 昭和51年7月11日 朝4時から降り始めた雨は次第に激しくなり、特に昼頃は1時間に58㎜という記録的な豪雨となり1日に降った雨量は392㎜となった。これは下田市の1年間の雨量の1/5にあたる量であった。 下田市全体の被害死亡5名、負傷者28名、家全潰9戸、床上浸水1321棟、床下浸水51棟

本災害に対する対応について

下田市は激甚災害対策特別緊急事業の申請を出し51年国、県の承認のもとに復旧工事にとりかかった。河口の港橋~河内志戸堰まで川幅を広げ、川底を掘り、一部流れを変える工事をし、水の流れを今までの1.7倍にした。 復旧工事は昭和52年~56年の5年間かかった。

他の企業、ボランティア等の連携や支援について

新聞、テレビ等報道機関を通し被害の状況が報道されたので各種団体、個人から救援物資が続々と届けられた。区の役員などはこの救援物資をなるべく早く、公平(家族構成、被害程度を考慮)に分配するのが大変だった。物資は朝、昼、晩と時を定めず到着するので10日間位、地区役員の方々は集まり処理した。

本災害の経験から得られた教訓や反省点等について

昭和50年にも大洪水があったようだが、その後、改善はさせておらず、住民は雨が降るたびに予防措置をしておこうと中の瀬の人たちが堤防の基礎がため、かさあげ(石積み)の作業が行われていた。 行政へ相談し早急に、次の被害が最小限になるような対策が必要であった。 雨は急な増水がとても怖い。床上浸水でやっと目が覚めたなどと言う話もあるため、早いうちから避難勧告が必要である。

県の対応への意見について

緊急事業の申請を出してから、早いうちに復旧工事にかかれたのは良かった。

その他自由意見

下田市G社

体験談